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【ノンフィクション】あの日何が起こったのか。僕が見たもの聞いたこと(3日目)~東日本大震災から10年によせて~

今日で3回目の自分が体験を元にした手記の最終回となります。自分がこれを公開することで何かが大きく変わるとか皆さんへのメッセージ性を期待しているとかは正直ないのですが、10年前こんな事が現地であったのだと少しでも感じて頂けたら幸いです。

 

3日目

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ガレキの高さがゆうに3Mを越えていた。しかも、建物がある頃は見えるはずの無い海岸線の水平線が確認出来た。

本当に何もかも消滅させたんだと気づいた

マーおばちゃんの話によると建物が何にも無いので自分の家の位置を確認するのが本当に困難だと言っていた。まさにその通りだった。唯一といって良い残存している鉄筋建造物のスーパーの位置を目印にガレキの街を歩く。クルマから見ていたガレキの街を自分の足で歩くと全く違う感覚になった。当たり前と言えば当たり前なんだけど何千台というクルマが流されて壊れている影響でガソリンのにおいがいたるところで充満していた。二次災害というかガレキがいつ火事になっても本当におかしくないぐらいのガソリン臭。以前よく来ていた沿岸被災地を歩いている感覚ではない。パニック映画のセット

戦後の空襲にあった街並を歩いている感覚

人がが今すぐ住めるような建造物は本当になにひとつ残っていない。今すぐ機能するクルマも無い。道ばたに落ちている見知らぬ人の大切な思い出の写真を見つけた。本当に泣けて来た。神様の仕業だとするならこんなに惨い事があって良いのかと。辛いというより悔しかった。

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以前訪れた事ががあった位置までなんとかたどり着けた。でも、位置を特定出来るまで本当に苦労した。自衛隊の方が道を造る為に集めたガレキの山があったから。本当に建物の基礎部分しか無い。例えこの位置になにか落ちていてもこの場所のものでは無い確立が高い。このエリアで何かを探すのは諦めざるを得ないなと言う感情になった。知人が住んでいた場所に向かう。両サイドに住宅が密集していたはずのエリア。ここは海岸線に近い事もありガレキすらない。なにもない風景へと変わった。

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目印になるのがこの辺一帯では1番の高層ビルのキ○○ホテル10〇〇。某演歌歌手がオーナーだった為地元でも愛されたホテル。名勝の松林が一望出来る素晴らしい立地のホテル。それゆえ1番海岸線に近い所にあった。今回はそれが裏目に出て海岸線に近いこのエリアは建築の基礎部分しか残っていない、簡単に言うと砂浜みたいな状態。知人の家を特定するのが難しいと思った。でも杞憂だった。表札を含む外壁がなぜかこの家だけ残っていた。

迷わないように待っていてくれていたように感じて

大泣きした。ここ10年で1番泣いたと思う。なんであんなに泣いたのか。今思い返すとここでの楽しい思い出を人と家と写真と全て持って行かれた悔しさだったと思う。とにかく悔しかった。でも彼の残した家はすごかった。津波対策で作ったと言っていた外壁も半分も残っていた。すぐ隣のドコモショップ、ツルハドラック、ゲオのような建物は何一つ残っていないのに。コレはゲオの入り口しか残っていない写真。

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この場所に30分以上はいたと思う。何でも良いから遺留品を持って帰りたかった。でも本当になにも残ってない。

津波の残酷さは思い出を持ち帰る事すら許してくれなくて

形見になるようなものも本当になんにもない。しかたなく、確実にこの所在地のモノであるという確証があった外壁の一部と庭の芝生の草を持って帰ってきた。すぐ近くの国道45線は津波によって道路がえぐられていた。

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この日は雨の予報だったので夕方までには○田一中に戻りたかった。家族の遺留品や安否を気遣う人が「震災前の家」の前で立ち尽くす姿があり、無事難を逃れた家族は自分の居場所(避難所)を基礎部分にスプレーやマジックでかいていた。

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この街を歩いている気分、感情、雰囲気は忘れられない。どこを見渡しても

「悲しみがあふれすぎていた」

僕が今まで経験した中で「もっとも残酷な天災」だと思った。地震だけの被害ならば例え建物が倒壊してもガレキの山は現存した位置にとどまり続け遺留品や遺体の捜索も難しくはない。しかし今回の大津波は建物、遺体を全く予期しない位置に押し流しもしくは沖に持って行ってしまう為、

個人の痕跡が全くなくなってしまう

誰しも自分が生きた証や仕事で勝ち得た城は自分が亡くなっても残っていて欲しいという願望が少なからずあると思う。遺体を火葬で家族に見守られながら弔う事さえ許されない事がこんなに残酷な事だと思わなかった。正直、知人は生きていると信じてこの場に来た。タケおじさん達の話を聞いても諦めなかった。浅はかだった。この場所に来たら自分の願望というか予想がいかに的外れで

テレビから見えてくる惨状がいかに作られたものか

津波が到達した時、小さいと言われている第1波だとしても逃げ遅れた人がいたなら絶対に助からないとこの場所にいて感じた。こういった防災拠点である消防署が見るも無惨な姿になっていたのを見て規格外の津波だったと改めて思った。

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辛い気持ちのまま○田一中に戻って来た。唯一の救いはここを出発する時には基礎部分しか出来ていなかった仮設住宅が壁と床部分まで完成していて、復興に向けての明るい材料を見ることができた。

この後、タケおじさんの家に寄った。沿岸被災地を歩いて自分の目で見た感想を聞かれた。

 

「もし、あの場所にいたなら助からないだろ?」

 

「無理だと思いました」

 

目をつぶると○作小学校でみた沢山の凄惨な遺体が次々と浮かんでこの日はあまり寝れなかった。

仙台に戻る日。その前に前日に沿岸被災地で見つかった遺体は全て21日に○田町スポーツセンターという所に集まる事になったという情報を聞いて出来るだけ知人の遺体を確認して帰ろうという事になった。タケおじさんの家で仙台に帰るあいさつをし遺体安置所である○田町スポーツセンターへ。ここへは沿岸被災地の4つの遺体安置所からあつまった遺体が500体ほどあった。昨日、見に行った○作小学校では全ての遺体がビニールシートに無造作に入れられていたが、ここでは準備が出来た遺体からキレイな木製の棺に入れられていた。顔だけは見えるようになっていて身元の確認が出来るようになっていた。人間不思議なもので昨日はあれだけ直視するのが辛かったはずなのに2日連続となると完全に良い意味で慣れてしまった。もっというと身元確認作業に没頭出来た。しかし、昨日とは明らかに違う点が遺体から出る異臭。さすがに震災から一週間も経てばそれもしょうがないのかもしれないけど冬だった事が幸いして腐食のスピードは遅い。警察の方が言っていたのを聞いた。集中しても個々を識別するのは本当に難しくこの日も新たに上がった遺体を確認しても知人とおぼしき遺体は見つからなかった。ここでもまた5歳ぐらいの女の子の遺体があった。

眠っているようで安らかで胸が締め付けられた

警察の方に特徴を伝えると発見しやすいという事で行方不明者特徴書なるものを書いた。

○田町のガソリンスタンドが仙台より並んでいなくて正直少しでも入れて帰りたかったが、凄惨な被災地である沿岸被災地の人々の邪魔は出来ないと思って(10っ箇所あった市内のガソリンスタンドは全滅)入れずに仙台に向けて出発した。最後にもう一度沿岸被災地を見て回ろうと思ったけど○田町との分岐点で新たな遺体があがったとのことで邪魔にならないように....

 

この三日間で価値観というか死生観というか自分の人生において大きく変わった事は間違いない。自分の手で探して足であるいて目で見てシャッターを押してガソリンの匂いをかいで...本当に行って良かった。いつもの日常が一瞬にして奪われる事があるのだという恐怖。人生いつ死ぬかわからない。僕はこの場所に年に3,4回行っていた。自分が巻き込まれなかったのはキセキなのかもしれない。311の日、この場所にいたら沿岸被災地の多くの人と同じ感覚ですぐに避難しなかったと思う。

僕は生きる事を許されたのだ

命の重さ、大切さを何回教科書で説かれるよりありがたい説法を聞くよりこの場所に赴く事で自分にとっては一生忘れられない出来事ととなり

『生きる事を絶対に諦めてはいけない』

んだと教えてもらった。結局、親族は行方不明のまま。出来る事なら遺体を見つけてあげてちゃんと葬ってあげたい。でもかなわないかもしれない。でも、今の沿岸被災地や自宅やお店を見たらきっとスゴく悲しむから見せたくないと思ったりもする。

 

最後にちゃんと表札と外壁を残してくれて道案内してくれて現在のこの場所にに導いてくれた事に感謝します。僕がいずれそっちに行ったら美しく生まれ変わったここ場所のの写真を持って行こうと思います。

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 以上が、自分が10年前に書いた手記であり自分が経験し見たり聞いたりしたことの全てです。僕自身も今回手記を読み返して当時の記憶が鮮明に戻ってきました。写真も実はもっと撮影しており、全部で1500枚以上は撮影したと思います。見返すことが辛かったと後になって思ったりもして居ましたが、こうして皆さんにお見せして何かを感じて頂けるきっかけなったっかと思うと当時頑張ったことは無駄ではなかったのかなと思ったりもします。

最終回までお付き合いいただき読んでいただき本当にありがとうございます。