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【ノンフィクション】あの日何が起こったのか。僕が見たもの聞いたこと(2日目)~東日本大震災から10年によせて~

昨日に引き続き読んで頂きありがとうございます。本日で東日本大震災から10年になります。

www.honknowblog.com

あの時現地で何が起こっていたのか、少しでも皆様に感じていただきたくて記事書かせていただいております。昨日の1日目に続き2日目の手記になります。

2日目

朝早く出発するからと言われていたのでタケおじさんの所へは朝7時に。まずは知り合いの方へ物資を持って行きたいのと情報を求めて月○神社という避難所へ。○田町から沿岸被災地までは約20キロ弱。昨日は夜にここに着いたせいで全くといって良いほど周囲の景色が見えなかった。道路標識が「沿岸被災地まで14km」という表示を指したあたりで川沿いの国道を走っていた自分の目に信じられない光景が飛び込んで来た。川にガレキの山が。川を伝って津波が隣町の川までガレキを押し流してきていた。

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文章に書くと上手く表現出来ないが残酷感は半端なかった。地獄の川ってこんな感じなのだろうと直感的に思った。沿岸被災地との境に来ると仙台で見たテレビ報道と同じような光景に変わった。道はガレキで塞がれクルマが通れるように自衛隊が国道を整備していたがそれ以外の場所は全て泥。

津波が来て引いたあとに残るのは泥しかない

この中に何の罪も無い人々や財産や生活が埋もれてると思うと泣けてきた。

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クルマを運転して何気なく見ている光景なのにこんなに残酷な景色を生まれてから見た事がない。辛い気持ちのまま20分かけてなんとか月○神社避難所へ。

この避難所はかなり山奥にある神社を急遽避難所として解放した所で避難者の数は多くない。でも全くスペースに余裕は無く電気も来てないので厳しい避難所生活を強いられている人が多くて可哀想だった。本当に着の身着のままのおばあちゃんもいて唯一の荷物は抱っこしてる柴犬のワンコだけという人もいた。ここでは有力な情報が無いという事で遺体安置所のある○作小学校の体育館へ。当初は一般人が簡単に入れないように制限しているという話もあったけどさすがに遺体の人数が人数だけに警察の方、鑑識の方達だけでは身元の判別が難しくなって来たようで誰でも入れるようになっていた。僕も職業柄一般の方に比べれば遺体を見る、触る機会は多いと思う。医療系大学時代の人体解剖実習や依頼による遺体確認作業など....

ところが想像を絶していた。ここに来る前に仙台で震災、原発、津波関係のネット記事や報道を電気が復帰してから食い入るように見ていた。予備知識として「今回の震災で亡くなった方の9割が津波による溺死」という記事。おそらくこの○作小学校だけでも200体以上の遺体が安置されていた。

正直にいうと最初の5分間は直視出来なかった

僕の職業でも、辛い。どの遺体を見ても水分により膨張していて流されたときの流木等の傷で遺体の損傷が相当激しい。頭部が欠損しているご遺体も多数あった。衣類や遺留品も一緒に置かれていた。いつまでも直視出来ないと目的が果たせないと感じ入口に戻り設置してあったお線香に火をつけ合掌して深呼吸したら少し落ち着いた。もともとこのエリアは老年化指数が高くほとんどが60歳以上の高齢者の遺体だった。ほとんど判別出来ないものが多いので顔だけでなく警察の方が作成した「死体特徴書」なるものも一緒に添えられていて「体の手術痕、頭髪の状態、身長、発見場所、衣服の状態」などなどビニールシートを全部めくらなくても分かるようになっていた。すると

突然、体育館の端から叫び声が

中学生ぐらいのご遺体の前で泣く母親。確かに若い感じの遺体がその場所にはあった。母親が泣き崩れて動けなくなっていたので他の親族の方が警察の方と確認の書類にサインしていた。その後、みんなで中学生ぐらいのご遺体の「おくりびと」の準備に入っていた光景が忘れられない。泥の残る顔をタオルで拭いてあげて検死用に着衣を取った遺体に浴衣を着せてあげる母親。こんなに惨い光景は他にあるのか....辛かった。それでも前日、木村屋のおばあちゃんに言われた通り今の僕の仕事は「遺体を見つけてあげる事」。自分なりに自分の責務を全うした。1時間以上かけて200体以上のご遺体を確認した。誤解を招く表現かもしれないけど、コレからの将来がある若い人の遺体を見るのが本当に辛い。1人は先ほどの中学生の子。他は3,4歳ぐらいの女の子。自分にとって絶対に一生忘れることができない光景だし絶対に覚えておこうと思った。海外のメディアがこういう映像を普通に報じる一端を理解出来た気がした。

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次に向かったのはテレビにたびたび登場する最大の避難者1200人を収容している○田一中。ここでは突然普段の生活を奪われギリギリ命だけ助かったと言った方々がギュウギュウで生活していた。入り口から避難施設の体育館の方へ行こうとすると受付の女性に呼び止められマスクをするように注意された。マスクも手袋も診療用のを持参してたんだけどここまでの行程で動揺が大きく気持ちに余裕がなくてすっかり忘れていた。避難所でインフルエンザが流行っているから協力して欲しいとの事。

ここではタケおじちゃんの義理の妹にあたる人と会う事になっていた。仮名「マーおばちゃん」。マーおばちゃんは3日前NHKで津波被害の状況のインタービューを受けた。その映像を僕が見たのがきっかけで今回話を聞かせてもらえる事になった。沿岸被災地に住むマーおばちゃんだったがまずは、息子さんが遺体で見つかったという話をしてくれた。マーおばちゃんには3人の子供がいて1人は県外で生活、

1人は今回の津波で亡くなりもう1人の娘さんは津波で行方不明だと言う

消防団のお手伝いの仕事をしていた息子さんだったようで、311のあの日も付近住民に避難するように警告していたところで津波にあってしまったとの事。息子さんの友達が当日風邪で寝込んでいたので代わりに活動してあげた結果が...。幸いにも生き残った消防団の人がマーおばちゃんに謝りに来たと言う。

「本来なら僕が死ぬべきだった」

「そんな事はないよ、そういう辛い思いをしてコレから生きていかなくちゃイケナイんだから○○君(謝りに来た消防団の方)だって相当つらいんだよね」。こんな辛いやりとりがあって良いのかと思った。自分から見れば誰も悪くない。みんな立派な人たちだと思った。震災から一週間ほど経過していたのもあるかもしれないが沿岸被災地で生き残った人たちは前を向いている人が多いと思った。

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「ウチの一族は5人もっていかれた(流された)」

「うちは親子三代全員だ」

「あそこの○○家はみんないない」

とか。明るく話す訳ではないけど暗さはみんなから感じられなかった。涙も枯れてしまったのかもしれない。けど、ちゃんと現実を受け入れていて本当にみんな尊敬出来るとおもった。

それと今回のマーおばちゃんの話は今後の防災のヒントになるかもしれない貴重なお話だった。なんと、避難したあと1回家に戻って上着を取りに行ったという。ビックリした。地震発生は1446。海沿いに家があり尋常な揺れじゃないと判断したマーおばちゃんはチリ地震津波の経験から旦那さんと避難所へ行く事を決める。今考えればお店も流されてしまったのだけど、自営業のお店のシャッターを閉め戸締まりをし走って少しだけ高台にある高田小学校という避難所へ。この時点で1510ぐらいだったと思うとの事。ここで防災アナウンスが入りこの避難所だと津波が大きくて押し寄せる可能性があるのでさらに高台の避難所へ移るようにとの事。ここでもまだ、みんなこんな大津波が来ると思っていなかったと言う。少し肌寒さを感じたマーおばちゃんは近くの消防団の人に「1回戻って上着を取って来ていいか?」と訊ねた

「今回は本気で命の保証はしない」

と真顔で言われたのだという。マーおばちゃんはそれでも長期戦になる予感がしたので走って家に戻った。この時点で1525ぐらいだった。なんとマーおばちゃん家に戻って上着を取っただけじゃなく我慢出来なくておしっこもして来たとの事。走って○田一中に着いたときは1532ぐらいだっと事。背中にすごい津波の音を感じ流されいく人を見ながら走ったと言っていた。あと2分遅かったら本当に命は無かったと泣いていた。本当に着の身着のままで逃げたと。家も流され店も流され息子と娘を流され...相当辛いはずなのに気丈に311の話をしてくれたマーおばちゃんに本当に感謝している。今日行く予定だった○崎小学校という遺体安置所は遺体の数が多くなって来たので、○田町のスポーツセンターに沿岸被災地の遺体を全て運ぶという事で明日まで入れないという事も教えてくれた。

ここでマーおばちゃんとタケおじさんと別れ沿岸被災地を自分の目で見たくて行く事に決めた。クルマで行ける状況ではないという事で歩いて行く事に。農作業用の本格的な長靴とリュックと軍手と仙台から持って来たペットボトルの水と一眼レフをもって歩く事に。高台にある○田一中を少し下りるともう光景が異様だった。

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今日はこちらの手記2日目を公開しました。明日で完結となります。今日でちょうど10年になります。10年前東日本大震災の津波の被災地の実情や悲しいストーリーがたくさん散りばめられていたのを感じて頂けたら幸いです。

次回は3日目を公開しますが、次回も引き続きショッキングな描写や写真が登場しますので苦手な方は自己責任で閲覧していただくようお願いいたします。

 

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