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【ノンフィクション】あの日何が起こったのか。僕が見たもの聞いたこと(1日目)~東日本大震災から10年によせて~

明日で東日本大震災から10年になります。僕は当時被災地、被災3県に居住していました。医療関係者という仕事柄、市町村や団体の依頼によりボランティア活動にも従事し様々な光景を目の当たりにして来ました。他メディア用に10年前自分が書いた手記を今日は特別編として本能ブログで公開します。すべてノンフィクションですが登場する人物、エリアは仮称、仮名となっておりますのでご了承ください。写真もすべて自分が撮影したものになります。

1日目

2泊3日で医療関係の依頼を受けた活動のために津波の被災地へ。仙台を出発したのが14日夕方4時30分。高速道路は緊急車両のみしか走行出来ないので国道四号線で一関へ。国道四号線のGSはどこも閉まっていて交通量も本当に少なかった。道も所々パンクになり得そうな亀裂や割れがアリいつもよりも低速で走行するように心がけた。それでも2回ぐらい下回りを当てるぐらい大きなずれ段差が国道四号なのにあってびっくりした。それでも緊急車両である自衛隊車両(ハマーのような)にしてみたらたいした事ない悪路なのかもしれないけど4とはいえ小型10年落ちTOYOTAヴィッツには厳しかった。本当に自衛隊の車両が多くてすれ違うたび抜かされる度にお辞儀するようにした。自分には到底真似出来ない任務を自分たちに代わりやってくれている感謝の気持ちは本当にあって自然と頑張って欲しいなぁという気持ちに。

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 高速道路ならば1時間ちょっとで着く仙台泉ー一関の距離も国道4号だと2時間30分もかかってしまった。この時点で7時前ここから目的地の沿岸被災地までは343号線という街灯もほとんどなく携帯の電波も本当にあやしいワインディングが始まる。こういう状況じゃなくても夜間に通りたくない道。自衛隊が震災でダメージを受け所々寸断されていた道路を整備し終えたばかり。この日から一般車両の交通ができるようになったような道路。しかも、無駄にガソリンは減らせないしでも出来るだけ早く着きたいし...かなりの緊張状態で一関から大○町という街をぬけひたすら343号線を沿岸被災地へ。ガソリン不足もあってかこの時間に被災地に向かうクルマは自分1人。ただ、対向車で自衛隊車両や救援物資を運ぶトラックと沢山すれ違い少しづつ復旧している感じがして嬉しかった。それでも道は本当に悪く落とし穴のような路面も...

こんな状況でパンクしたり事故を起こして、本来被災者のために働くべき救急の人たちや自衛隊の人たちに絶対に迷惑をかけれないという緊張感のまま被災地市境まで突入。しかし、夜間とはいえこの辺の風景はいつもと一緒。テレビで報道されたイメージがあっただけに拍子抜けしたがよくよく考えるとここは海岸線から海抜も高く距離も20キロ以上離れたエリア。ところが残り10キロ付近になってから夜間とはいえ景色は一変。見た事無い量のガレキ、木材、家財道具の山が。除雪車が邪魔な雪を両サイドに押しのけるかの如く緊急車両が通れるスペースが自衛隊のおかげで出来ていた。

この時点で夜8時前後。全てのインフラが断たれている被災地へ突入するのはあまりにも無謀すぎるので心配してくれていた○田町という被災地中心地から16キロ離れた隣町の叔父さんの家へ。仮名「タケおじちゃん」。タケおじちゃんは洋品店とクリーニング店をこの○田町で経営していて明るくてさっぱりとしていてすごく若くてとても75歳には見えない!しかも、最近町から25年間の交通指導員としての実績を表彰されたそう。

タケおじちゃんの家に到着すると木村屋さんという沿岸被災地で和菓子屋さんを営むおばあちゃんと被災地に住むタケおじちゃんの姉のおばあちゃんが高○一中の避難所から疎開してた。着いて早々、ここにいるみんなから口々に津波の被災談が....木村屋のおばあちゃんは

お店は全壊したうえに孫を3人も流されてしまったそう....

本当は自分よりも若い人に生き残って欲しかったと悲しそうにしていた。しかも、自分のすぐ後ろで山を登っていた人は流されてしまったと。タケおじちゃんのお姉さんのおばあちゃんは「みんな油断していた」と。今までも岩手、宮城で大きな地震は何回もあったけど津波が来ても1~2m。つまり沿岸被災地にある5m級の防波堤は越えないだろうという油断。今回も相当な揺れだったので消防団員の方も大津波警報だから!と必死にアナウンスするも自営業の人はシャッターを閉めようとしたり金庫を取りに戻る人や悠長に自家用車で避難しようする人...それでも地震発生から35分程度は大津波が来るまで余裕があったそう。少しでも疑ってちゃんと避難したり体力のある若者は生還することが出来たと。若者といえば午後2:46といえは小中学校保育園等は通常の授業の時間帯。小中学生は先生の指示に従って素早く高台に避難して登校していた子はほとんど無事だった。

問題になったのは聞き分けの無い保育園の子達。地震で泣くは暴れるは...で収拾がつかなかったとのこと。でも、津波はかなりの勢いのものが来るという先生方の焦り。ここで先生達は苦渋の決断をしたそうです。保育園のある位置から高台向かって

言う事を聞けなくてパニックになっている子を中心に山側へ投げた

のだと。「怪我はいずれ治せる。津波さらわれたらそれでおしまい。だから多少骨折しても命を助けたい」保育園の子達も大きな怪我もなくほとんどの助かったと。先生達の判断が素晴らしいとおばあちゃん達は褒めていた。あの極限状態の中で使命感を持って子どもたちを守ろうとする保育士さん達の仕事ぶりはただただ凄いとしか言いようがない。

今回の大津波発生当初は「4~5M」というアナウンスだった。でもここに到着した日付の○手日○を見せてもらうと「24M」の津波が沿岸被災地全域に襲来。想像出来ない数字だけど仙台で考えると高層ビルといって良い高さ...それと海からの距離によって風景が全く異なるとのこと。海岸線に近ければ近いほど跡形もなく津波が建造物、自然、あらゆる構造物をさらってしまい本当に何も残っていないと。逆に押し出した山側は木材やガレキ泥まみれの遺体などそういったものが街全体を覆い尽くしてしまっているという。

今回の震災に関するお話を沢山聞いて僕自身違和感が。仙台にいてネットで情報を集めてもまったくなんの手がかりも無かったのにここに来ると感覚が引き戻される。具体的には通信インフラが断たれているのにみんなやけに街の人たちの安否情報や震災時の様子に詳しい。そう、FBならぬ田舎リアルSNSのパワーはすごい。町の人全体がみんな知り合いみたいな所。この違和感に気づいた時タケおじさんが

「俺も毎日避難所、安置所に行って情報収集してる。これで分かっただろう。ここではネットなんて役に立たない現場に来ないやつは何も分からない。もし不明になってもしどこかの避難所にいたら必ずここに(知り合いに)情報が来るはずだ。つまり一週間経ってもなんの情報も無い俺の親族は...」

ここで木村屋のおばあちゃんが

「遺体をみつけてあげて。海にさらわれてしまって(沖に流されて)見つからない人も沢山いるんだよ。ちゃんと弔ってあげれないほど可哀想な事はないだろう?私が90年間生きてきてこんなに恐い災害に遭った事は無いよ。それだけすごい津波だった。1人2人じゃないの...みんないなくなったのよ」

 温度差があった。仙台にいたときは「携帯も電気も無いから街の人も連絡とれなくてきっと高○一中以外の避難所にいるんだろう」という希望的観測。しかし、現実は違ってここの人たちは、避難所同士を行き来して情報集めたり助け合ったり安置所に行って身元不明の遺体の確認を顔見知り程度でも連絡してあげたり....twitterやFBでもかなわないようなほぼ完全ともいえる地域SNS(良い意味で)があった。一気に絶望感に襲われた。ここに来るまでは明日夜があけたら「避難所を出来るだけ回って叔父さんを手伝おう」と思っていた。タケおじちゃんは「明日は遺体の情報収集の為に安置所と避難者(知り合い)が1番多い高○一中に行くから」と。わざと冷たくでもちょっと言いづらそうにしているのが分かった。そういう優しい所があるからこのおじさんはみんなに好かれるのかもしれない。その日はタケおじちゃんの家で物資も少ないはずなのに夜ごはんをごちそうになり急遽予約してもらった旅館に泊まる事に。

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今日はこちらの手記1日目を公開しました。自分が10年前に書いた手記とはいえ、記憶が薄れているところもあり10年という年月が過酷な状況にあった自分でさえ風化してしまっていると怖くなったりもしました。僕が皆さんにこの手記を公開することで何を感じて欲しいかなどという大義名分は無いのですが、メディアに報じられることのない悲しみや現実がそこにあったということを少しでも感じてもらえたらと思うのです。

次回は2日目を公開しますが、もう少し次回はショッキングな描写や写真が登場しますので苦手な方は自己責任で閲覧していただくようお願いいたします。

 

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